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仏教文庫収蔵の寺宝 
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聖観世音菩薩立像 木造

いま泉龍寺の本尊は釈迦三尊像であるが、江戸中期以前は、この聖観世音菩薩を本尊としていたようである。胴体は一木で、頭部が大きく、髻は頭上に置かれている。装身具は金属製。
台座の裏に、天和8年(1683)8月3日「再興」した。「泉龍寺四世牛誉代」と墨書してある。泉龍寺では、二世欄室関牛筆『泉龍寺鉄叟禅師縁記』(1655)の記述を根拠にして、この像を、天暦3年(940)増賀が安置したという法道作の二尺三寸の聖観音像であると見做してきた。しかし、承応2年(1653)石谷清正・貞清が仏母堂(現存しない)を建てて安置した十一面観音像(欄室関牛筆の棟札による)の頭部を聖観音像に改めた可能性も考えられよう。
  弁財天像 木造

頭部は女性の容貌で冠に鳥居を着け、身体は蛇の姿をしている。宇賀神の形である。彩色した宮殿に納められている。
『泉龍寺鉄叟禅師縁記』において、初代地頭の石谷清定(-1601)が鉄叟瑞牛とともに「まず泉池中島を開補し、弁尊天の宮殿を建立し、蛇形の聖像を彫刻し、社堂に安座せしめた」としているのが、この像であろう。しかし江戸時代の中頃には、「良弁僧正の作」と称し、本堂に移されていた。元禄6年(1693)4月、地頭石谷氏の一族で嫡流にあたる石谷市□□□が、弁財天池の中島に、弁財天・不動明王合祀の石祠を建立した。その頃にこの木像を本堂に移したのかもしれない。
     
     

洛中洛外図屏風 一曲分91・0㎝×51・2㎝

泉龍寺本は現在四曲一双に仕立てられているが、もとは六曲一双であったと考えられ、前回までの修理で一部失われた部分も見受けられる。右隻には、左に三十三間堂とその手前に鴨川と五条橋が見え、第三扇に鴨川に注ぐ白河に橋が架かり、三条橋も見える。左隻は中央に五層の天守を戴く二条城、左上に金閣とおぼしき建物が見える。本図の制作には比較的古い洛中洛外図を手本としたことが考えられ、描かれた建物や人物表現の古様さや寺社の景観などに総じて江戸時代前期頃の特色が窺える。
泉龍寺に伝わる洛中洛外図屏風は、寺伝によると、石谷貞清が島原の乱の戦利品として持ち帰り、寺に奉納したという。石谷氏由来ということに、戦利品という尾ひれがついたのではなかろうか。

石谷貞清画像 絹本着色 狛江市重宝指定

石谷貞清(1594-1672)は、和泉村の地頭となり泉龍寺を中興開基した旗本石谷清定(-1601)の三男である。寛永14年(1637)島原の乱を鎮圧するため、征討使板倉重昌(1588-1638)に副い目付として赴き、苦戦して負傷した。慶安四年(1651)江戸町奉行に抜擢されて活躍した。
この画像は貞清生前に描かれた壽像で、慶安2年(1649)前大徳寺(百八十三世)の琢玄宗璋(1597-1685)が賛を書いている。この賛は左から読む。江戸時代貞清の子孫はこの画像を自宅の玄関に飾っていたが、のち幸田氏の肖像画コレクションに入り、昭和52年(1977)に古書店を通じて泉龍寺が入手した。
     
     
 石谷貞清座像
狛江市重宝指定
   慶長十五年銅製雲版
狛江市重宝指定
   慶安二年十月
徳川家光朱印状
  慶長十一年五月
泉龍寺領内目録
 
 
 石川丈山扁額
狛江市郷土資料指定
 
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